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「玉音放送」を仕掛けた下村宏、後藤新平から厚い信頼
15日は「終戦の日」。1945(昭和20)年のこの日、昭和天皇自ら国民に向けて終戦を告げる玉音放送が行われた。ラジオによって重要情報を確実に伝えようと奔走したのが、内閣情報局総裁を務めていた下村宏(1875~1957)。下村は旧逓信省の職員だった頃、時の逓信大臣・後藤新平(1857~1929)が厚い信頼を寄せていた。水沢大手町の後藤新平記念館(佐藤彰博館長)では10月27日まで、後藤と下村の関係を紹介するコーナーを開設している。
(児玉直人)
水沢の記念館に関連資料展示
和歌山県出身の下村は東京帝大(現・東京大)政治学科を卒業後、旧逓信省に入る。33歳の頃、逓信大臣だった後藤に有能さを認められ、郵便貯金局長に任命された。
台湾総督府民政長官、朝日新聞社副社長、NHK会長、貴族院議員、内閣情報局総裁、拓殖大学長などを歴任。後藤新平記念館には、朝日新聞社時代に後藤とやりとりした手紙が残されており、期間限定で展示している。
下村の功績として目を見張るのは、玉音放送の実行だ。1943年の時点で既に玉音放送の計画を練っており、放送実施直前には単独で昭和天皇に面会し、その必要性を訴えたという。
電力、通信環境が劣悪な状況だったが、確実に全国に放送が届くよう環境を整備。放送前夜と当日朝には「必ず聞くように」と国民への周知も徹底した。
用意周到に計画を練った下村は、情報を適正に伝えることの大切さをよく理解していたとみられる。これは、後藤がラジオ放送の重要性を認識していたことと重なる。
後藤が東京放送局(NHKの前身)総裁に就任した1924年の前年、関東大震災が起きた。震災直後、根拠のないデマが広がり、朝鮮の人たちなどが虐殺される事件が起きた。ラジオが存在していれば、デマに乗じた虐殺や混乱は起きなかったのでは――と言われている。
玉音放送で流れた昭和天皇の肉声は、1945年8月14日の深夜から翌日未明にかけ、皇居で録音された。録音作業後、下村は玉音放送を阻止しようとする陸軍将校らが起こした「宮城(きゅうじょう)事件」に巻き込まれ、近衛歩兵第二連隊に拘束・監禁されるが、事件はほどなくして鎮圧。皇居内に隠してあった録音レコードも無事NHKに持ち込まれ、下村も解放された。同15日正午、玉音放送は予定通り実施。冒頭、昭和天皇自らの玉音を送る旨の説明が下村によって行われている。
下村は花巻温泉の名付け親としても知られている。同温泉の釜淵の滝へ向かう遊歩道には、「海南」の雅号で詠まれた短歌の碑がある。
同記念館では「後藤や花巻温泉にもゆかりがあり、玉音放送に深くかかわった下村の足跡を知る機会になれば」と話している。館内では後藤の東京放送局総裁就任100年を記念した企画展も開催している。