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江刺「百鹿」誕生40年、名物群舞 脈々と

江刺「百鹿」誕生40年、名物群舞 脈々と
日を浴びて輝くササラを背に、「百鹿大群舞」を披露する奥州市江刺鹿踊保存会の踊り手たち。迫力満点の踊りと小気味よい太鼓の音で沿道の見物客を魅了した=昨年5月4日、江刺甚句まつり会場

 始まりは1985(昭和60)年の春だった。JR東北新幹線・水沢江刺駅の開業を祝いつつ、郷土の「宝」である伝統芸能をアピールしようと、旧江刺市の鹿踊(ししおどり)団体が流派を超えて新たな群舞を生み出した。
 その名も「百鹿大群舞(ひゃくしかだいぐんぶ)」。総勢100人が一斉に太鼓を打ち鳴らし、勇壮に舞い踊るさまは圧巻だ。同駅開業記念行事での初舞台以降、東京都や大阪府、京都府などでの一大イベントで華々しく披露。えさし夏まつりや江刺甚句まつりでも、大勢の見物客を毎年魅了する。これまでの公演数は120回に及ぶという。
 一糸乱れぬ隊列を組むのは、鹿踊13団体でつくる奥州市江刺鹿踊保存会(佐藤則明会長)の踊り手たちだ。人口減少時代を迎え、担い手の高齢化や後継者不足はなお深刻。新型コロナウイルス禍では公演がなくなり、稽古も控えて活動が停滞した。「百鹿」の踊り手は100人に満たない状況が続くが、伝統継承の決意は揺るがない。祖霊供養や悪霊追放、五穀豊穣に祈りを込め、名物群舞は今年3月、誕生から40年の節目を迎える。

郷土の「宝」後世へ、一糸乱れず勇ましく

 奥州市江刺地域を代表する郷土芸能である鹿踊。中でも「百鹿大群舞」は根強い人気を誇る。公演には関東圏からも観光客が訪れ、一糸乱れぬ勇壮な踊りを盛大な拍手でたたえる。誕生から間もなく丸40年。なぜ「百鹿」は人々の心を引き付けるのか。
 1985(昭和60)年3月14日。胆江地方は曇り空が広がり、春を迎えても寒さが身にこたえた。
 この日、東北新幹線の水沢江刺駅が開業。駅前広場で行われた祝賀行事に胆江各地の芸能団体が次々と出演し、黒山の人だかりができた。締めくくりに江刺鹿踊11団体の計60人が「大群舞」を堂々と披露。かつてないスケールの演舞が住民や乗降客らを魅了し、会場は拍手と歓声に包まれた。今に続く百鹿大群舞の始まりだった。
 この初舞台で、リーダーの中立(なかだち)を任されたのが、奥州市江刺鹿踊保存会の前会長で現在顧問を務める菊池司さん(77)=江刺梁川字鴫谷。
 当時38歳。梁川金津流鹿踊今野組の一員だった。群舞を統率する責任を感じながらも爽快な気分で踊り切り、しばし達成感に浸った。「いつまでも忘れられない」。江刺鹿踊の新たな一歩を昨日のことのように思い出す。
 同駅開業記念事業への参加に向け、江刺の鹿踊団体が結束。統一した踊りの創作を目指した。
 菊池さんによると、当時あった12団体のうち3団体の各代表が中心となり、群舞の構成を練り上げた。
 代表3人は江刺市梁川金津流鹿踊の平野幸男さん、奥山行山流内ノ目鹿踊の後藤克夫さん、奥山行上流餅田鹿踊の佐藤慶吉さん(いずれも故人)。現役の踊り手として菊池さんら2人を呼び、考えた踊りをその場で試しながら完成させた。鹿踊は通常8人一組。流派の異なる団体同士が円滑に取り組める群舞を一から創作するのは難しく、金津流鹿踊と内ノ目鹿踊を組み合わせたという。
 公演を重ね、現在は甚句方式と短縮版のパレード方式の2通りが定着。その時の会場に合わせて使い分けている。
 初舞台以降、その評判は遠方にも届いた。大銀座まつりや天皇陛下御即位奉祝パレード、大阪・御堂筋パレード、京都まつりなどの大舞台を踏んだほか、江刺甚句まつり、えさし夏まつりにも毎年出演している。2016(平成28)年10月には、「希望郷いわて国体」総合開会式のオープニングを飾った。
 根強いファンも多い。公演の際には、大勢の住民や観光客らが詰めかけるなど、江刺の名物群舞として浸透。昨年5月の甚句まつり会場では、茨城県鹿嶋市の60代男性が「百鹿をどうしても見たくて楽しみにして来た」と興奮気味に話していた。
 金津流石関獅子躍師匠の安部靖さん(50)は「SNS(交流サイト)で百鹿の動画が流れ、鹿踊の魅力が広まる。宣伝効果は絶大」と指摘する。
 菊池さんは「勇壮活発」が鹿踊の魅力と語る。東京・銀座でのパレードでは100人の太鼓の音をビルの谷間で反響させ、「岩手の代表として皆で張り切り、ますます力が入った」。他県のある出演団体は踊りの音楽をかき消されて難儀したようで、「百鹿の前後は遠慮したい」との恨み節も聞こえてきたという。

江刺「百鹿」誕生40年、名物群舞 脈々と
「江刺の鹿踊は市民の皆さんのご理解があったからこそ、ここまで発展できた。関係する全ての皆さんのご協力に感謝申し上げる。今年予定する百鹿の40周年記念事業を無事成功させ、鹿踊の末永い継承に弾みをつけたい。保存会加盟団体手を携えてまい進していく」と語る、奥州市江刺鹿踊保存会長の佐藤則明さん(59)

担い手高齢化/後継者不足 伝承に課題も

 「これって百鹿ですよね」。江刺鹿踊保存会前会長の菊池司さんは、演舞会場で小学生にそう聞かれた。「百鹿だよ」と答えると、「数えたら82頭しかいなかった」。子どもたちの期待を裏切るわけにはいかないと苦笑する。
 コロナ禍で公演の場がなくなり、稽古も自粛するなど活動が停滞。同保存会に現在加盟する13団体のうち、百鹿大群舞は団体で編成せざるを得ないのが実情だ。岩谷堂高校鹿踊部の部員が加わることもあるが、それでも今は70~80人で隊列を組んでいる。
 他の郷土芸能と同様、後継者不足が大きな課題。現役の踊り手が年を重ねる一方、後を継ぐ人がなかなか入ってこないのだ。
 菊池さんは、現役世代が稽古を重ねて良い踊りを積極的に発信すべきだと強調。動画共有サイトも使い、「まずはやってみたいと思ってもらう」。各鹿踊の大半が江戸期に始まり、狭い地域で伝えられてきたが、「門戸をさらに広げないと存続は難しい」と語る。
 伊手の奥山行山流地ノ神鹿踊も後継者不足に頭を悩ませる。踊り手は40代を中心に11人いるが、公演日に都合がつかず、鹿踊に必要な8人がそろわないこともある。代表の中島香也さん(57)は「地元内外で声がけして担い手を確保したい」と力を込める。江刺一中3年の菊池悠愛(ゆな)さん(14)は2年前、父親の影響で地ノ神鹿踊に加わった。「とにかくかっこいい」と夢中になり、「鹿踊の伝統を絶やしたくない。興味があったら思い切って入ってほしい」と呼びかける。
 菊池司さんは、子どもたちが鹿踊に興味を抱く機会を増やし、惜しみなく支援することも大切と指摘。金津流野手崎獅子躍の師匠とともに同高校鹿踊部のコーチも務め、後進の育成に力を注ぐ。
 ジュニア世代では、伊手や梁川地区のスポーツ少年団や子ども会組織などのほか、金津流梁川こども獅子躍が体験の場を広く提供。本年度は江刺、水沢両地域の小中学生13人が練習を重ねて各種イベントに出演し、好評を得ている。技術や心構えを丁寧に指導する金津流梁川獅子躍代表の及川俊一さん(69)は、「まずは興味のある子どもに体験してもらい、将来の担い手育成につなげていきたい」と話す。
 菊池司さんは、江刺の鹿踊がたどった栄枯盛衰を振り返り、「問題は沈んだ時にどう乗り切るか」。着実な伝承に期待を込める。

江刺「百鹿」誕生40年、名物群舞 脈々と
えさし夏まつりを締めくくる百鹿大群舞。会場は踊り手と見物客の熱気にあふれた=2022年8月16日、江刺市街地

【記者コラム】百鹿のはじまり

 宮沢賢治の童話に「鹿踊りのはじまり」がある。賢治が紡いだ起源譚を読み返し、百鹿大群舞の始まりに思いを巡らせた。
 1985(昭和60)年春、百鹿の初舞台を前に、10日間の練習会が地元江刺で開かれた。参加した11団体はそれまで別々に活動。交流はほぼなかった。むしろ「俺たちの方がうまい」との競争心を抱いていた。「けんかをするわけではないが、会っても話をしなかった」。関係者はそう述懐する。
 しかし百鹿では一転、互いに認め合い、切磋琢磨する環境が整った。流派を超え、郷土の鹿踊を担い手全体でもり立てていく機運が醸成されたに違いない。
 昭和から平成にかけ、外部からの公演依頼が多い団体もあれば、少ない団体もあった。なかなかお呼びがかからない団体も、百鹿の一員として東京や大阪での大舞台を共に経験。それで担い手としての意欲を高められたのであれば、百鹿は鹿踊そのものの幅広い伝承に一役買ったと言える。仮に百鹿が存在しなかった場合、江刺の鹿踊の多様性は損なわれていたかもしれない。
 個々の団体が百鹿を支え、百鹿が各団体を支える。「百鹿のはじまり」は、そんな好循環の始まりでもあった。
(若林正人)