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エミシ懐柔、須恵器製造拠点か(江刺の瀬谷子窯跡群)

エミシ懐柔、須恵器製造拠点か(江刺の瀬谷子窯跡群)
瀬谷子窯跡群から出土した広口瓶。この形の瓶はエミシをもてなす際に用いられたとされる(及川真紀上席主任学芸員提供)

 平安時代前期の窯跡「瀬谷子(せやご)窯跡群」=江刺稲瀬=の役割が、主に胆沢城周辺のエミシ懐柔に用いる須恵器(すえき)製造の拠点であったことが分かった。奥州市教育委員会の及川真紀上席主任学芸員ら3人による共同調査で判明。これまで胆沢城で用いる瓦や公用の器などを焼くためだけの専用窯(官窯(かんよう))とされていた定説が覆った。また同窯跡出土の須恵器の特徴を検討した結果、秋田横手方面から技術を移入して焼かれたものであることも確認。以前から想定されていた多賀国府など宮城方面からの技術導入ルートも、改められる結果となった。
(宮本升平)

「胆沢城の官窯」との定説覆る (奥州市教委学芸員ら共同調査で判明)

 瀬谷子窯跡群は1955(昭和30)年から1970年にかけて計9回、発掘調査を実施。国士舘大学の故大川清名誉教授が主に指揮した。胆沢城が建てられて間もない9世紀中頃から約100年間、長根山や鶴羽衣(つるはぎ)台など周辺5カ所に計100基の窯を築造して操業していたことが判明し、出土遺物の一部は大川名誉教授が設立した日本窯業史研究所=栃木県那珂川町=に所蔵されていた。
 発掘調査で発見された瓦が、胆沢城で発見されたものと一致したため、胆沢城で用いられる瓦や須恵器を製造する官窯と研究者間では考えられてきた。
 今回の共同調査は、2021(令和3)年に同研究所から同窯跡の出土品が返還されたことなどをきっかけに、及川上席主任学芸員が企画。高橋千晶同上席主任学芸員、佐藤良和市埋蔵文化財調査センター所長が有志で参加した。約3年間をかけて同研究所旧蔵品や同センターに収蔵されている2万5000点以上の同窯跡群出土品を調査。特徴のある遺物354点を選び出し、詳細に分析した。
 共同調査の結果、遺物の多くは瓶(へい)や甕(かめ)類で、瓦や公的機関で用いた高級な器などは比較的少なかったことが分かった。瓶や甕類で大半を占めたのが、首が長い形の長頸瓶(ちょうけいへい)と口の広がった広口(ひろくち)瓶の2種。先行研究によると、この22種の瓶は東北古代エミシをもてなす宴などに供されたもので、そのまま持ち帰らせたとされる。
 加えて2種の瓶には波線のような「波状紋」が刻まれ、底の高台(こうだい)の内側には放射状の痕跡が確認された。これらの特徴が8世紀に雄勝(おがち)城(払田柵(ほったのさく))=横手市=の関連窯跡から多く出土する須恵器と酷似。このことから、雄勝城に付属する窯の工人たちが瀬谷子に呼ばれて操業した可能性が高まった。窯の形も雄勝城関連のものと似ており、分析結果を裏付けた。
 及川上席主任学芸員は「出土遺物の点数が膨大であったことなどから悉皆(しっかい)調査が行われず、遺物の一部を見て判断され、瀬谷子が胆沢城や徳丹城で用いるものだけを焼く官窯だと定説化していた。実際に調査していくと、エミシへの懐柔策にも用いられた窯であり、それが想像よりも大掛かりなものだった印象を受けた」と指摘。「瀬谷子産の須恵器がどこで出土するかによって、胆沢城とエミシの交流圏がどこまで広がっていたかなども分かるようになる。エミシを懐柔していくという胆沢城の役割をより明確にしてく一助になれば」と期待する。