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天文学は「平和の学問」(戦後79年、記憶紡ぐ夏)

天文学は「平和の学問」(戦後79年、記憶紡ぐ夏)
所有する記録本『緯度観測100年』を手にする元緯度観測所計算係の寺島倭子さん

 水沢の高齢者施設で生活する寺島倭子(しずこ)さんは、太平洋戦争前後の時代、水沢緯度観測所(現・国立天文台水沢VLBI観測所)の計算係として勤務した。満100歳を迎えた今年、当時の様子を尋ねたが、混乱や困窮した状況を感じさせる話はほとんど聞かれなかった。「天文学は平和の学問」。寺島さんが手にする記録本には、そんな一文があった。
 寺島さんの父善治さんは、同観測所の会計係を務めていた。しかし寺島さんが7歳の時に他界。1939(昭和14)年3月、水沢尋常高等小学校を卒業してすぐ観測所の計算係として仕事を始め、14歳で複雑な計算をこなしていた。この年の9月、ドイツのポーランド侵攻によって第2次世界大戦が始まり、やがて日本も戦争の道へと突き進む。
 戦乱の世の中にあっても、観測は休まず続けられていた。「敷地西側に大きな防空壕を掘って、何かあったときはそこに逃げるようにしていました。灯火管制で夜間の観測時は2人で一つのランプを使って、記録などをしていたようでした」。若手職員の何人かは戦場に駆り出された。そのうちの一人が、雑務に当たっていた岩淵今朝吉さん。「短いほうきを銃に見立てて、『第〇〇隊、岩淵、これより行ってまいります!』と敬礼していました」。出征する若手職員の壮行式が、奥州宇宙遊学館として使用されている2代目本館でささやかに行われた。
 近隣地域が狙われた爆撃の音は聞こえたが、観測所そのものに対する攻撃はなく、寺島さんは「これといった緊迫感はなかった」と回想する。
 1945年8月15日。玉音放送を聞き「みんなほっとした雰囲気でした」。観測所では測候業務もしており、終戦直後はそのデータを提供するよう進駐軍に求められた。「おそばを注文して、残業していました」
 終戦の翌年、寺島さんは出産、子育てに専念するため退職する。当時所長だった池田徹郎は、いわゆる“寿退職”に否定的な人物だった。だが寺島さんの給料だけでは、仕事中に子どもの面倒を見る「姉(ねえ)や」を雇う余裕はなく、惜しまれながら退職した。
 「嫌なこともあったかもしれないが、いい思い出だけが残っているんです」。なぜ寺島さんは戦中戦後、緊迫した空気をあまり感じなかったのか。観測所の歴史を研究している元国立科学博物館研究員の馬場幸栄さんは「寺島さんにとって、人生で一番楽しい青春時代だったこともあるのでは」と推察する。
 寺島さんが手にしていた記録本『緯度観測100年』の中に、戦後の天文台の取り扱いを垣間見る一文を見つけた。
 「占領軍も天文学は平和の学問であることを認識して、東京天文台や緯度観測所の戦後の復興に非常に協力的でした」(元東京大教授の故・関口直甫さん寄稿)
 水沢VLBI観測所となった現在、韓国や中国の電波望遠鏡と連携し、ブラックホール関連の観測を行っている。歴史認識や領土問題などを巡り、ぎくしゃくした雰囲気がある日中韓関係。だが天文学では、互いに協力し合う世界が広がっている。現所長の本間希樹・国立天文台教授が「仲が悪かったら、私たちの研究は成り立たない」と語っていたことを思い起こす。
 1世紀以上にわたり水沢にあり続ける天文台。学問がもたらす平和の在り方を静かに訴えているのかもしれない。
(児玉直人)