TOPIC

ILC 欧州建設の可能性も(推進派2氏が最新動向を語る)

【連載・緯度観測所と地域の人々 4】第2代所長・川崎俊一とその家族

【連載・緯度観測所と地域の人々 4】第2代所長・川崎俊一とその家族
川崎俊一洋行記念の写真。二列目中央の眼鏡をかけた背の高い男性が川崎俊一。その左の白髪の人物が木村栄、右が池田徹郎

 1922(大正11)年、京都帝国大学(現・京都大学)で宇宙物理学を学んだ川崎俊一が、水沢の緯度観測所に観測課の技師として赴任した。技師というのは、当時の観測所において、学位を持つ研究者に与えられた役職名である。主な任務は、眼視天頂儀による緯度観測と初代所長・木村栄が発見したZ項の研究であった。
 1932(昭和7)年から2年間の海外派遣の機会を得て、グリニッジ天文台において浮遊天頂儀を用いた緯度観測を行うとともに、浮遊天頂儀の図面・構造を学んだ。帰国後は国産の浮遊天頂儀を製作し、水沢での緯度観測に活用した。その浮遊天頂儀は現在、国立天文台水沢VLBI観測所の「木村榮記念館」に展示されている。1941年に緯度観測所の第2代所長に任命されたが、肺炎のため1943年に46歳の若さで帰天した。
 川崎は1896(明治29)年に滋賀県で生まれた。親友であった池田徹郎によると、「五尺八寸、十七~十八貫」(約176cm、約64~68kg)で、当時の日本人男性としてはかなり大柄だったようである。また、当時としては珍しいことに、見合い結婚ではなく恋愛結婚をしている。水沢に赴任する途中で出会った摺沢出身の襄子夫人を見初め、その恋を成就させたのである。
 川崎夫妻は4人の子どもに愛作(アイザック)、錠二(ジョージ)、るゑ(ルイ)、芳(カール)と洋風の名前を付けた。長男が生まれた際には、ダジャレ好きな木村所長から「愛作乳呑」(アイザック・ニュートン)と揮毫された書を贈られたという逸話が残っている。
 川崎夫妻と長男は水沢教会で洗礼を受けており、一家が暮らす緯度観測所の官舎からはよく賛美歌が聴こえてきたそうだ。川崎の義理の兄に当たる天文学者・山本一清も熱心なクリスチャンで、観測のため山本が水沢に滞在していた1914(大正3)年から2年間、観測の合間に熱心に伝道活動をしていたという記録が残っている。
 妻・襄子が1940(昭和15)年に病気で亡くなると、川崎は悲嘆に暮れたが、留学中に知り合った遺伝学者・篠遠喜人とその夫人の紹介で、九州で英語教師をしていたクリスチャンの雪子夫人と1941年に再婚した。1943年に川崎が亡くなると、雪子夫人は4人の子どもたちを連れて緯度観測所の官舎を出ることとなり、川崎の実家がある滋賀へと移住した。子どもたちは愛情深い雪子夫人のもとで立派に成長したが、生まれ故郷である水沢での日々をしばしば懐かしんだそうである。
(馬場幸栄)