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【連載企画】戦時の星空 見つめて

【連載企画】戦時の星空 見つめて

【連載企画】戦時の星空 見つめて
講演会で天測による位置決定の例を示す本間希樹所長(奥左から2人目)

 今年3月、奥州宇宙遊学館で特別展示「写真とともに語り継ぐ戦時中の緯度観測所」が開かれた。同館は水沢星ガ丘町の国立天文台水沢VLBI(ブイエルビーアイ)観測所敷地内にあり、VLBI観測所は1899(明治32)年に誕生した臨時緯度観測所(後に緯度観測所)が前身。1世紀余りの歴史の中には、戦争の時代もあった。展示期間中の講演会では、太平洋戦争当時の緯度観測所と地域の姿、さらには科学と戦争はどのように影響し合ったのか、4人の研究者らが専門的見地から語った。講演記録を基に▽科学と戦争▽日常への影響▽太平洋戦争中の緯度観測所▽国際研究事業の変化▽警報下でも観測し現在へ――をテーマに5回にわたり連載する。
(児玉直人)

(1)科学と戦争 避け難き縁

 緯度観測所は星を観測して緯度の変化を捉え、地球の動きを調べる研究を続けてきた。その観測所の歴史には、戦争の時代があった。
 「科学者も当然、戦争とは無縁ではいられない」。電波天文学などが専門のVLBI観測所の本間希樹所長は、科学と戦争の関わりをこう表現する。飛行機や軍艦、大砲など、戦争の背後には科学技術がある。
 「科学者も直接、間接的に関わってきた。良くも悪くも、である」(本間所長)
 その一つが、星を使って自らの位置を知る「天測(天文測量)」だった。現在は衛星利用測位システム(GPS)を使えば、私たちもスマートフォンやカーナビゲーションで瞬時に現在地を知ることができる。
 しかし、自らの位置を好きなときに正確に測れるようになったのは、人類の歴史から見れば最近のこと。それ以前、陸地から遠く離れた海上、あるいは空の上で、船や飛行機が自らの位置を知るには、星や太陽、月が頼りだった。
 「昔の航海は『六分儀』というものを使い、水平線に対して天体がどの高さに見えるかを測る。あらかじめ計算された星や太陽などの位置と照らし合わせれば、自らが地球上のどこにいるかを割り出せる」と本間所長。緯度観測と同じく天体を基準に位置を求める技術で、かつての航海には不可欠だった。
 それは軍事でも同じだった。敵味方がどこにいるのか分からなければ戦うことはできない。本間所長は、その実例として日露戦争の日本海海戦を挙げた。
 1905(明治38)年5月27日未明、哨戒中の仮装巡洋艦「信濃丸」が東シナ海から日本海へ向かうロシアのバルチック艦隊を発見した。信濃丸は敵艦隊を追いながら位置と進路を本部へ報告。日本艦隊はその情報を基に出撃し、対馬沖で迎え撃った。
 海戦当日の信濃丸の記録には、未明の東の空に月が見えていたことが記されている。日本艦隊出撃時の電文として知られる「本日天気晴朗なれども波高し」の通り、好天にも恵まれしっかり天測ができた。本間所長は「正確な天測によって敵艦隊の位置を把握できたことが、海戦を有利に進めた要因の一つだったのでは」とみる。
 天測は、日露戦争が終わった後にも使われた。ポーツマス条約により、北緯50度以南の樺太(現・サハリン)が日本へ割譲された。だが、GPSのない時代、広大な土地のどこが北緯50度なのかを現地で決めなければならない。日露双方が観測隊を派遣し、星を観測して国境線を定めた。
 この作業には、緯度観測所初代所長・木村栄(ひさし)と縁の深い天文学者が関わった。木村は水沢に赴任する前、陸軍陸地測量部(国土地理院の前身)の修技所で、若い測量技術者に星学(天文学)を教えていた。木村の後任となったのが、弟弟子の天文学者・平山清次。のちに樺太の国境画定に専門家として参加した。
 陸軍に陸地測量部があったように、海軍には「水路部」があった。軍艦が天測で位置を知るには、何月何日の何時に、どの天体がどこに見えるのかを示した「暦」が必要になる。「水路部では天文学者たちが作成に当たった」と、国際日本文化研究センターの馬場幸栄(ゆきえ)准教授は説明する。
 星を観測する天文学は、純粋な研究だけに終始したものではなかった。航海や地図作りを支え、時には国家の命運を左右する戦争にも使われた。
 太平洋戦争末期、海軍水路部は東京から業務を分散させることになる。疎開先の一つとなったのが、水沢の緯度観測所だった。

(2)写真捉えた大戦の足音

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出征前の所員(手前中央)を囲んでの記念写真。写っている人たちの髪形、服装から当時の状況が推察できる。背後は今は無き気象観測棟=馬場幸栄准教授提供

 水沢の緯度観測所に戦争はどのように入り込んでいったのか。その変化を伝える資料の一つが、国立天文台水沢VLBI観測所に残る500枚余りのガラス乾板だ。フィルム普及以前の写真のネガで、ガラス板に感光材を塗ったもの。国際日本文化研究センターの馬場幸栄准教授は10年ほど前からデジタル化し、調査を続けている。
 乾板には撮影日時や場所、人物などの説明がほとんどない。馬場准教授は元職員や家族への聞き取り、ほかの資料との照合を重ね、「次第に誰が写っているのか、どこで写したのかが分かってきた」と話す。
 太平洋戦争前の緯度観測所では毎年のように運動会が開かれ、所員だけでなく家族や手伝いの人たちも参加した。1939(昭和14)年には初代所長・木村栄の古希を祝う運動会も催された。馬場准教授は「家族ぐるみの非常にアットホームな天文台だったことが伝わってくる」と写真から読み解く。
 しかし、戦争が進むにつれ、人々の姿も変わった。女性はおさげや三つ編み、もんぺ姿。男性は丸刈りや国民服が目立つようになった。そして日の丸を手にし、出征する所員を囲む人たちの写真も見つかった。
 ある所員の壮行記念写真で馬場准教授が注目したのは背後の扉。「こちらの部屋の扉と同じですよね」。旧緯度観測所2代目本館。つまり本講演会会場の奥州宇宙遊学館でつい80年ほど前、戦地へ赴く所員を送り出していたのだ。
 同じころ、水沢の町も戦争へ組み込まれていった。奥州市地域文化財研究所の小玉克幸さん(44)によると、1943(昭和18)年、後藤伯記念公民館で「大東亜戦完遂展」が開かれた。戦争遺児の頭をなでる東条英機首相のろう人形などを展示。「戦意高揚、戦争への協力を呼びかける催しだった」と小玉さん。住民が募金し「水沢町民号」「江刺号」と名付けた軍用機を献納する運動もあった。
 大戦末期には軍事施設や軍需産業も身近になった。胆沢小山には約1500mの滑走路を備えた陸軍飛行場が突貫工事で造られ、水沢農学校などの生徒も動員された。金ケ崎町西根高谷野原にも飛行場が整備された。
 航空機メーカーの中島飛行機も疎開し、水沢や江刺などに工場を展開。水沢では「剣」と呼ばれる特殊攻撃機の製造が計画され、木材を多用するため地域の箪笥職人らを動員する予定だったという。職人の配給手帳や江刺の旧家で製作図などが見つかり、小玉さんは「これで間違いなく『剣』を造っていたことが判明した」と語る。
 所員と家族が運動会を楽しむ平和的な光景が広がっていた観測所から、軍服を着た出征者が送り出される。写真や各種資料は、戦争が何げない日常に入り込んできた過程を伝える。やがて観測所には軍の組織そのものが持ち込まれる。軍艦や軍用機の天測に使う「暦」を作っていた海軍水路部だった。

(3)「暦」を作る女性たち

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国立天文台水沢VLBI観測所に保管されている海軍水路部(左)と連合国軍総司令部(GHQ)関連の書類つづり

 太平洋戦争末期、水沢の緯度観測所(現・国立天文台水沢VLBI観測所)には海軍水路部が置かれた。水沢分室として1944(昭和19)年8月から翌年2月まで、軍艦や軍用機が星を使って自らの位置を知る「天測」に必要な暦の作成に携わった。
 VLBI観測所で見つかったガラス乾板写真の中には、水路部に関係する人々の姿も残されていた。
 国際日本文化研究センターの馬場幸栄准教授が紹介した1枚は、水沢中上野町の陸中一宮駒形神社で撮影された写真。緯度観測所の職員ではない十数人の女性が写っている。
 手掛かりは、人々が持つ国旗だった。ガラス乾板は細部まで鮮明に記録でき、拡大すると旗に記された名前が読み取れた。
 「この方たちが誰か調べてみたら、海軍水路部の方たちだった」と馬場准教授。女性のうち2人は東京から来た水路部職員で、それ以外は同部に動員された水沢周辺に住む若い女性たちとみられる。なぜ、海軍の仕事にこれほどの人員が必要だったのか。
 本間希樹所長が解説(連載第1回参照)したように、衛星利用測位システム(GPS)のない時代、海上で自らの位置を知るには天測が重要だった。ただ星を見るだけでは、現在地は分からない。何月何日の何時に、天体がどの方角、どの高さに見えるのか。その基準となるデータが必要だった。それを計算し「暦」にするのが水路部の仕事だった。
 水路部第二部第四課では東京帝国大(現・東京大)出身の天文学者、秋吉利雄、塚本裕四郎、鈴木敬信らが編暦に従事。塚本は天体の高度や方位を一定時間ごとに示す「高度方位暦」を作成した。
 「膨大な量の計算が必要なので、人員を増やさないといけなかった」。馬場准教授によると、水路部は戦時中に人員を増やし、全国各地の女学校の生徒らも計算作業に動員した。水沢分室も例外ではなかった。
 同分室は1945年3月、水沢高等女学校(水沢高の前身)へ移転した。胆江日日新聞に寄せられた元女学生の証言などから、生徒たちも水路部の作業に参加していたことが分かっている。
 馬場准教授は、もう1枚の“特殊な写真”も紹介した。緯度観測所で見つかったガラス乾板なのに、所員が一人も写っていない集合写真だ。
 駒形神社の写真と比べると、同じ人物が何人かいた。さらに水路部OB・OGのアルバムには、ほぼ同じ写真があり、1945年9月に水沢分室の解散を記念して撮影したと記されていた。
 「おそらく水沢の女学校の人たちと水路部の人たちが、終戦を迎えたので『これで終わりです』と撮影したものでは」と馬場准教授。背景の建物や女性たちの身元など、これから調査すべき点はあるという。
 星の位置を計算する。一見、戦争とは遠い仕事にも思える。しかし、そのデータは軍艦や軍用機の航行を支えた。
 東京から来た天文学者、水沢の若い女性たち。さまざまな人が「暦」作りに携わり、科学と戦争をつなぐ仕組みの中にいた。
 同じころ、戦争は国際研究である緯度観測も揺るがしていた。海外では空襲で閉鎖される観測所が発生。一方、水沢からは3人の所員が海を渡り、日本統治下のインドネシアで観測を再開しようとしていた。

(4)翻弄される国際観測網

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インドネシアへ派遣された切田正實(右から2人目)が、渡航前に官舎前で家族と撮った写真。観測要員とはいえ「軍属」として赴任するため、軍服を着用し軍刀を携えた=馬場幸栄・国際日本文化研究センター准教授提供

 水沢星ガ丘町の緯度観測所(現・国立天文台水沢VLBI観測所)に海軍水路部が疎開した頃、海外の緯度観測網は戦争に翻弄されていた。
 国際緯度観測事業は1899(明治32)年、北緯39度8分上に水沢を含む6カ所の観測所を置いて始まった。第1次世界大戦後に3カ所が閉鎖されたが、初代所長・木村栄が再建に尽力。1936(昭和11)年には南半球を含む8カ所に広がった。
 VLBI観測所特定技術職員の蜂須賀一也さんは、第2次世界大戦中の事業を巡る「二つの物語」を紹介した。
 一つはイタリア・サンピエトロ島のカルロフォルテ緯度観測所。観測者が残した1943年の日記には、戦争が迫る様子が記されている。
 「1月20日。日没ごろに敵国の飛行機がカルロフォルテ近郊を周回している。彼らは何を探しているのだろうか」
 3月、近くの島で焼夷弾による火災が発生。4月にはカルロフォルテも空襲に遭い、民間人9人が死亡、30人が負傷した。一方、観測所は無傷だった。
 「これは偶然なのか? それとも故意なのか」
 この記述を最後に避難命令が出され、観測所は一時閉鎖された。
 もう一つはインドネシア・ジャワ島のレンバン。ジャワ島には、バタビア(現・ジャカルタ)近郊に緯度観測所があったが、1940年に閉鎖した。その後、日本が旧オランダ領東インドを占領すると、観測所復活の計画が持ち上がった。
 「バタビアは木村栄がつくった観測所。もう一回ここで……という声があったようだ」(蜂須賀さん)。しかし建物の老朽化によりバタビアでの再開は断念。代替地となったのが、バタビアから約100km南東にあるレンバンのボスカ天文台だった。
 1943年、水沢緯度観測所から切田正實、植前繁美、木村忠敬の3人が派遣された。いったん退職して「軍属」となり、現地へ向かった。切田は後年『レンバン天文台のおもいで』を執筆。標高約1200㍍の天文台には花々が咲き、日本では見られない星を観測の合間に眺めたと記した。
 1944年夏にはレンバンを含む世界6カ所で観測が続いたが翌年8月15日、終戦を迎える。望遠鏡や観測データを箱に収め、注意書きも添えた。いつの日か回収できるようにとの願いを込め――。
 ほどなくして、独立へ向かうインドネシアは混乱に包まれた。日本人所員は武装した住民に囲まれ、一時軟禁状態となったが、現地の義勇軍に助けられ脱出した。捕虜生活を経て1946年6月に全員が帰国。水沢の3人も緯度観測所へ復職した。
 現地に残した観測データは今も戻っていない。当時の池田徹郎所長が米軍を通じ問い合わせたが、「そのようなものはない」との趣旨の回答だった。
 「レンバンの観測データは幻となった」と蜂須賀さん。戦争は国際観測網を揺るがし、科学者たちが丹念に積み重ねた記録まで失わせた。

(5)絶やさぬ観測 現代へ

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警戒警報の文字が記載された観測野帳

 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年夏、胆江地方にも攻撃の手が迫っていた。
 米軍は攻撃に際し、日本の都市や軍事施設をあらかじめ調べていた。ところが、奥州市地域文化研究所の小玉克幸さんによると、緯度観測所のほか、胆沢の小山や金ケ崎の高谷野原に造られた軍用飛行場の情報はなかったようだ。
 同年8月9日から10日にかけ、同地方は米軍機の攻撃を受けた。米軍の記録には、一関方面へ向かった艦載機が途中で小山飛行場を発見し「正体不明の村や町をロケット弾や機銃で攻撃した」とある。
 小山飛行場は滑走路を田んぼに見せ掛け、移動できる家のようなものを置くなど偽装していた。米軍パイロットも「鉢植えの木」やローラーに載せた「かやぶき屋根」があったと報告している。
 胆江地方では一連の攻撃で死者6人、負傷者4人以上が出たとされるが、被害の全容は分かっていない。
 空襲の2日前、緯度観測所では、いつものように星を追っていた。国立天文台水沢VLBI観測所が保存している同年8月7日の観測野帳には、観測データに交じって午後8時55分「警戒警報発令」の文字がある。次の観測前には「警報解除」と記されている。
 国際日本文化研究センターの馬場幸栄准教授は「他の緯度観測所が戦争により観測を中断する中、水沢では曇りの日以外、一日も欠かさず観測を行い続けていた」と説明する。
 戦争が終わると、ガラス乾板に写る人々の表情や装いからは、厳しい状況から解放され平和な日常を取り戻した喜びが伝わる。運動会も復活した。

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眼視天頂儀室(右手前)とVERAの20m電波望遠鏡(左)

 国立天文台の組織下となった現在、直径20m電波望遠鏡を用いた観測網「VERA」が、東アジアの電波望遠鏡と連携し、地球の動きやブラックホールの観測などを実施している。
 電波望遠鏡の近くに、古い小さな建物がある。緯度観測所開所当時に建てられた眼視天頂儀室だ。春夏秋冬問わず、ここで所員たちは満天の星にレンズを向けた。戦時中、同じ星空の下には、恐怖と苦痛、悲しみに暮れる人々が大勢いた。
 VLBI観測所特定技術職員の蜂須賀一也さんは、一連の歴史と現存する資産について「世界遺産に匹敵する」と、その価値と意義を強調している。「開所当時の建物と、現役の国際プロジェクトの電波望遠鏡が同じ場所にあるのは、世界でここだけ」と語る。
 「警戒警報」の文字と、その傍らに淡々と書き込まれた観測記録。一冊の野帳が、戦争をくぐり抜けて現在へつながった緯度観測所の歴史を静かに伝えている。